ぶろぐ

毒にも薬にもなりませんが、私の内面を少し知れるブログです。

 

「自殺はやる事やった後か若い頃じゃないと」と思う。

ところが長く生きるほど勝手にやることってのが増えてくもんだから、このやる事をやりきるのが難しくて、だから若いうちじゃないと簡単には死ねなくなる。

歳を取って様々なことを経験し、色々な世界を知った後に自殺するのはなんか違う。純粋で、世の中のことを何も知らない癖に知ったふうな顔して、狭い世界で絶望してる頃じゃなきゃ。

 

広い世界に出て絶望して死んだって、誰もその人のことなんか見てはくれない。世界は広いから、1日沢山の人が死に、その中の1人にしかなりえない。死んでも絶望はそこに残り続ける。
しかし自分の世界に閉じこもっている人間は違う、その死は全く世界の死と同じで、狭い世界が内側から完全に破壊される。これは大いなる意味がある。

広い世界を知ってしまったら完全な自分だけの世界には戻れなくなる。社会に属する人間としてのあれこれがついてまわる。だから何も知らない頃じゃなくちゃならない。

 

 


ちなみに俺は今死にたくない、というか死ねない。やる事が沢山あるから、やる事ができてしまったから。

 

というわけで死ねないので誰かが俺を殺してくれるのを待っている、やりたい事とやらなきゃいけない事にまみれながら。俺が眠つてゐるうちにそつと殺してくれるのを。
願わくばそこに愛があればと思う。

 

 

 

 

現代文

国語の成績と読書について思うところがあったので勢いでブログ書きました。

本当に瞬間の気持ちで書いているので後からちげーなぁと思ったら消します。許してください。文字数の関係でTwitterに収まらなかったんです。。。

 

きっかけはこのツイート

 

日本語学者(wikiに書いてあったのでご本人様が本当にそう名乗っているかは定かではないです)の飯間先生がこのようなツイートをしていました。

(この方のTwitterは個人的にすごく興味深いトピックが多いのでオススメです。)

 

興味をそそられたのでリプや引用RT、タグを少しだけ拝見させてもらい、思うことを書いてみました。

 

 

前書き終わり。以下本文に入り、常体になります。

 

 

このタグで発信をしている「読書をあまりしていないのにも関わらず現代文が得意だった」人が例として上げているのが主にセンターレベルの現代文である。
それもそのはず、大学受験の二次試験において現代文が必要とされる機会はそれほど多くない。

そもそもこの議題が(本を読む習慣はないが)現代文がそれなりに出来たという人の事であるので、一定レベルの学力を持たない人間の事は一旦考慮から外させてもらうことにしよう。
まず理系の人間の殆どは二次試験で国語を必要としない。国立大学の理系入試で2次まで現代文を課している大学は東京大学京都大学名古屋大学のみである。したがってこの3校以外を受験する(した)理系の人々はセンター試験以外で国語を必要としないのである(私立などで私の知る限りではない大学があったとしてもそれほど数は多くないだろう)。
また現代文が得意であり、かつ読書も頻繁にする人間の存在も考慮せねばならない。例えば文学部を志望する人間が本を読むことを嫌悪し、全く読書をしないということは比較的稀なケースであろう。理系に比べて文系の人間の方が一般に読書に親しむ人間の数は多くなるだろう(とされている)。
この様に考えていくと今回のケースに当てはまる人の中でセンターレベル以上の現代文の試験を課された人は、読書はあまり好まないがある程度の学力があり、文系(或いは先にあげた3校の理系)に進学を志す者ということになる。これが全国の高校3年生(or浪人生)に対してそこまで大きくない集合であるということは容易に想像できる。

 

話が逸れてしまったが、本題に戻る。読解力というのが文章を読んでその意図を汲み取る(さらに、自分なりの解釈を加える)事が出来る能力のことをいうのであれば、恐らくセンターレベルの現代文では読解力はそれほど必要な能力では無い。
もちろん筆者の主張を正しく解釈することで問題を解くのがより容易にはなるため、読解力とテストの点数に相関はあるのだろうが(明確なデータは探してないので知らないし、読解力というものを数値化するのも多分難しいと思う)センターレベルの現代文の出題形式はほとんど、複数の文章を羅列し、その中から誤っているものや適当なものを選ぶというものである。

この問題を解くにあたって重要なのは筆者が本文でどのようなことを、どのような方法で主張しているかではなく、選択肢として与えられた文章の内容が本文中で述べられているかどうかを探すことである。
つまるところ作者の意図というものの存在を断定して、ひとつの結論に向かって文章を余すことなく要約しようとした際の収斂的な読み方でも、文章に対して個性を働かせて記されている内容から自身の解釈を創造する拡散的な読み方でもなく、選択肢の文章の〇✕ゲームをするような読み方が求められているのである。

 

読解力と現代文の点数の相関関係は一旦置いておくとして、少なくとも読解力というものをそれほど持っていなかったとしても、選択肢に書いてある内容が本文で主張されている箇所を見つければ問題は解けてしまうのだ。

 

これが本を読む習慣がない(読解力がそれほどない)人間の中に国語の成績がよかったという人が一定数存在する理由のひとつなのではないだろうか。

なぜ人を殺してはいけないのか

【お断り】

この記事の正確性に疑問が呈されています。問題箇所に信頼できる情報源を示して、記事の改善にご協力ください。(2020年6月)

 

 

所謂我々に'許されていないこと'は本当に許されていないのか?

 

果たして誰が許していないのか?民意か?国家か?

 

民意であれば、自分と相手しかこの世界にいなかった場合彼若しくは彼女を殺すことは許されるだろう、なぜなら当事者以外に民意が存在し得ないからである。当事者を数に入れて全体の意志とするのは個人的な事情が介在しすぎてしまう気がする。そもそも1人が異を唱えたところで50%だ。過半数に達していない。その場合が許されるなら3人では?4人では?77億人では?

 

 

では国家か、人を殺すのは刑法第2編第26章で犯罪とされている。殺人をおこなってしまうと死刑又は無期若しくは5年以上の懲役である。この法定刑を甘んじて受け入れる覚悟があるのであれば人を殺すことは認められるのだろうか?

もしそうでないならば何故認められないのか、国家が成立する以前の人間が人を殺すことを咎めるものがなかったのであれば団体への所属の有無によって自身の自由が強制的に奪われることはあるのだろうか。生まれながらにして国家に強制的に参加させられている現代の人間と法規が存在しない世界で生まれた人間に本質的に持つ人間本来の自由の差異が存在すると信じるに足る根拠はあるのか。

 

動物は自らの利得のために他の動物を殺して食べる。野生の動物は時に自らと同じ種でも殺すだろう、人間も同様である。勿論これを人が否定するのも当然である。なぜなら生物は生き長らえることと子孫を残すことが本質的に重要であり、自分が殺されるのは嫌だからである。人が人を殺していたらそれを咎める必要がある、そうしないと自分の命が危険に晒される。動物がこれを明確な規則として成立させることができないのは人間が単に他の動物に比べ多少賢いからに他ならない。ただこれは自分が死にたくない理由ではあるが人を殺してはいけない理由にはならない。

 

時たま親が自分の子供に向かって

「人の嫌がることをしてはいけないよ」

と教える。当然社会のことをほとんど知らない子供はこう答える。

「なぜ?」

するとまた親はこう返す

「自分が同じことやられたら嫌でしょ?」

これは本質的だ。相手が嫌がることをするということは当然自分も同様のことをされるリスクを背負うことになる。そのリスクは防げるなら防ぐべきだ。

 

殺人を合法化する事で喜ぶ人間は、自分が殺されてもいいほど殺したい人間がいる人か余程の腕自慢かバカだけだろう。

大抵は殺したいぐらい恨んでいる人がいても自分が殺されるリスクを負うほど殺したいとは思っていないのだ。

そういう人間に対しては自分が殺されないために人を殺してはいけないという論法が通じる。

 

 

では自分が殺されても刑罰を受けてもいいと言う覚悟を持った人間に人を殺してはいけない理由はどう説明したらいいのだろうか。

このブログについて

どうも。タイトル通りにはなりますが、このブログの意図というか趣旨についてご説明したいと思います。本当ならこの記事はブログの最初に書いたほうが良かったとは思いますが、ふと思い立ったので頭の中にあった漠然とした構想を今更文字に起こします。

 

【始めた目的】

先ずこのブログの主たる目的は私の思考の言語化にあります。これは常々言っていることなのですが自分が考えていることの根底にある思想は自らを理解しようという試みを持って始めて表層に現れるもので、無自覚に何物かに感想を抱いていても真に理解することはできません。つまりこうしてブログの記事にすることによって私は私自身の思考を、これを読んでいる読者と同じレベルで把握しているということです(本当は私のほうが私に関する知識や前情報が多いのでちょっとだけ理解が進んでいます)。

 

こうして内面の言語化は私自身の在り方への問いになり、より自身に対する理解を深めるための手段となります。つまるところこれが本旨です。皆さんを私の自己満足に付き合わせているとも言えます。

 

 

ここまではブログを始めるに当たって私自身がどのような動機でブログを書き綴っているかという説明でこの先はそれを踏まえて皆さんにどのように見て欲しいかという願望を書きます。あくまで一例なので沿わなくても構いませんがどういうつもりで文章を公開しているかの理解にはなると思います。

 

【公開する理由】

結論から簡潔に書きますと、このブログを書いている理由は私の思想を皆さんの他者や世界に対する理解の糧にしてもらうことにあります。実際思想の言語化により自身の思考を理解したいだけであればわざわざブログの体をとって公開する理由は全くありません。

 

人間にはそれぞれに異なる人生があり、異なる哲学があります。

人生は選択の連続とはよく言ったものですが、その言葉は選択しなかった人生の存在を暗に含んでいます。私が綴る文章は恐らくこれを読んでいる皆さんが選択しなかった人生、歩まなかった道、その結果得ることのなかった自身とは異なる哲学を表面化させたものであり、選択しなかった側の結果を認識させるものです。

私の哲学と他者の哲学のどっちが優れているとかいう話をする気はありませんし、全面的な共感は全く、反駁もそれほど求めていません。

1つの人生では持つことのできなかった多数の支点を哲学書より雑多に、不明瞭に伝えることが本ブログの目的であります。

そのような前提のもと、異なる文化や価値観に対する関心として稚拙な文ではありますが、楽しんでいただけると幸いです。

 

 

 

極力特定の個人や団体を傷つけるような文章は避けておりますが、もし私のブログを読んで不快に思うことがあればお気軽にご連絡ください。レスバトルの準備はできております。

 

 

 

将来の夢

ぼくの将来の夢はやばいジジイ(敬称略)になることを避けることです。

 

世の中には無数のやばいジジイ(以下ヤバ爺とする)が存在します。

 

 

ヤバ爺には非常に豊富な多様性を見ることができますが、一つの共通した性質として皆一様に人々(若者を中心)に煙たがられているという性質を持っています。

老害という言葉が市民権を得ていることからわかるように頭のおかしい老人のことを一般的に人々は害とみなしています。

 

人は皆、歳をとります。青空に夢を描いた少年少女はジジイとババアになります。これは避けられません。そこで皆さんにはたった2つの選択肢があります。

 

 

 

 

 

ヤバイ老人になるか、ならないか。

 

 

 

 

 

この世のすべての選択は最終的にここに行きつきます。貴方の今までの選択、これからの選択の全てが老人になった場合の在り様を決定づけます。

 

 

別にヤバイ老人になることは悪いことじゃないと思います。寧ろ社会には一定数自己のルールを他者に押し付け厚顔無恥な振る舞いをする人が必要悪として存在しなければならない気もします。

そういった意味ではいわゆる老害の方々は皆がやりたがらない嫌われ役を自ら買って出た心の優しい方々なのかもしれませんね。僕はそう思いませんけど。

 

 

 

 

皆さんはどのような老人になり、どのような最期を迎えたいですか。もし自分の中にヤバイ老人の兆候が見え始めたら連絡ください。念のため先行ブロックしておきます。

 

 

 

 

 

 

 

1日に2個もブログを書きました。久しぶりです。

 

ではまた。

 

遊びと勉強

私には友達がいません。

 

こう書くとこれを見てくださっている私の数少ない友達の方に勘違いをさせてしまうと思うので、訂正しておきますが、ゼロではないです。

このブログを見ている私の事を友達だと思っていたお前。お前は友達だ。仲良くしよう。

 

でも、たぶん少ないほうだと思います。遊びに行く回数とかめちゃめちゃ少ないし。

 

 

正直友達とか人と遊ぶ時間とか、別に少なくても何も問題ないし自分なりの生き方で生きれればそれでいいと思います。人との交友に重きを置かずとも、何か他に自分なりの目標に向かって邁進していれば幸せな人生です。

両立できればなおのことですが、勉強やスポーツを頑張った結果として人付き合いがそれほど得意ではなくなってしまったとしても、その結果として得られた素晴らしい能力や満足は非常に得難い幸福の一つであると言えます。

逆に言えばそういった類の努力を行わずとも幸福を得られる手段のひとつとして、「遊び」を例に挙げることもできるでしょう。

 

つまり多少穿った考え方をすれば、これらは人生全体における幸福、快を得るための手段であり、人生の最終目標ともなり得るでしょう。

 

 

前述のように友人の少なく人間関係の構築が不得手な私はその他の努力を、いわゆる"有意義な人生"が送りたいのであれば、行わなければなりません。

 

 では実際に私が友人との交友をそれほど行なわなかった結果として得たものはというと、何もありません。強いて言えば憶病な自尊心と尊大な羞恥心ぐらいでしょうか。これと言って学もありません最悪です。

 

私にあとほんの少しでも勤勉さがあればもう少し“まともに”生きてこられたかもしれませんね。人に慕われるような性格も人間関係をよくしようと努力するひたむきさも持ち合わせていないような人間は最低限お勉強ぐらいできないといけないなと思っています(本当はいけなくなんかないです。もしこれに当てはまって自分が無価値な人間だと思い込んでしまうような人がいたら私に声をかけて下さい。お友達になりましょう)。

 

 

最近怠惰が加速していたので流石に勉強します。ここまで読んでくれた人がもしいれば、私に勉強しろとでも言ってください。励みになります、2つの意味で。

 

 

 

 

 

 

またブログ定期的に書こうかな、

 

 

 

奇を衒った期間限定の酒とお菓子はマズイ

夜中に急にプリングルスが食べたくなってコンビニに行きました。

 

夜のコンビニの魔力は凄まじいのでお菓子一つ買うつもりが結果700円ぐらい買ってしまいました。怖いですね、できるだけ近寄らないようにします。

 

 

長い大学生の夏休みも終盤に差し掛かり後期の日程が徐々に生活に侵食してきて不快感を覚えます。久方ぶりに会う大学の友達は元気でしょうか。できればお変わりないことを願います、急に周りの人間ががらりと変わってしまうと自身の成長のなさに嫌気がさしてしまうので。

 

好きな人にはあまり変わらずにいて欲しいなとか思ったりもします。

浅はかなエゴです。

 

変わっても好きですけどね。

 

 

 

期間限定の酒を飲んだらまずかったです。ほろよいの白いサワーが一番美味しいです。

 

 

 

プリングルスは買い忘れました。