ぶろぐ

毒にも薬にもなりませんが、私の内面を少し知れるブログです。

二十数年生きていてやっと自覚した習性

どうも、お久しぶりです。

忙しい方のために表題の結論だけ先に失礼します。

 

自分は単に怠惰で人に比べて劣っているので、何も継続することができない愚かな人間だとばかり強く思っていましたが、

どうやら自分にとって価値があると感じられる目的を伴った行為に関してはある程度続けられるようで、今まで継続できなかった種々のことは必要ではないと感じて無意識に切り捨てていったものだったのかもしれないな、などと。

 

 

 

 

結論としてはこれだけなんで、こっから先は読まなくても別にいいっすよ。

 

 

 

 

え、マジで?

そう言われて本当に読まないこととかある?

 

 

 

いやなんかさ、いいんだよ別に読まなくても。

 

 

 

でも、俺がめっちゃ久しぶりにこうやってブログを書いてさ、偶然か必然か目に留まってここまで読んでくれたわけでしょ?

 

 

 

せっかくだから最後まで読もうかなとかそういう気持ちはあんまりない感じだ。

確かに無駄ではあるよこの文章は、これ以降もずっとたぶん。

 

 

 

でもさ、そういうことじゃなくない?

時間の無駄とかさ、人生ってそんな生き急がないといけないんか?

 

 

 

資本主義とか好き?

あ~そういう感じだ。奴隷だね、資本主義の。

資本主義は別に君のこと好きじゃないと思うけどなあ、いや、いいんだけどね。

 

 

 

いや大丈夫大丈夫、明日も仕事とかあるだろうし、ゆっくり休みな。

全然大丈夫だから。俺はみんなの幸せを願ってるよ。

ほいじゃあね~~~

 

 

 

 

 

----------------以下蛇足(本文)----------------

 

最近、会社の健康診断がありまして、まだ血液検査だとかの結果は出てないですが、おそらく特に異常もなく終わりましたと。

まあ強いて言えば、視力検査の機械が今までの健康診断で使用していたものと違って、ランドルト環がまぶしすぎて全然見えないなとか思っていたらいつもよりかなり悪い視力(右:0.2、左:0.1とか)を判定されたりして、これは今までのが間違っていたのか、今回のが間違っているのかどっちなんだなどと思いながら、まあ新しいほうが正しいんだろうなと黙って結果を受け入れたりした瞬間とかはありました。

 

 

 

で、それはそうと健康診断前から最近太ったかなあ~とか思ったりして過ごしていたんですが、身長、体重、腹囲を測った際に去年の結果と比較され、(体感)かなり太っていることが確定してしまい、生活習慣を見直すということに相成りました。

 

というわけで現状は、禁煙(これはマジでなんとなく)を一応して、間食をほぼゼロに、あすけんをつけながらPFCバランス(なにこれ?知らんけど)を意識した食事をとりつつ、リングフィットアドベンチャー(これ最近ガチで敵強くなってきた)とランニング(夜、家の周りをランダムに爆走)を特別な予定がない日は基本毎日やるようにしてます。

 

 

毎日ジム通いみたいなハードワークはしてないけど、元々運動ゼロだったのでまあ最初はこんなもんかなと。

やっぱ最初っから見栄張って形を整えようとするんじゃなくて、無理なく続けるところからですわ。

これもかなり自分の性格を把握したうえでの学びかも。

 

 

どうせすぐやめんのかな~とおもいながら始めたものの以外と無理なく続けられているみたいで、なんでなんだろうなって考えたときに出てきたのが最初の結論だった。

 

自分が価値があると思っていることに対する行為はそれほど苦しくなく継続できるみたいで、

仕事で評価されるとか、その結果給料があがるとかにあまり価値を見いだせず、モチベーションにならない一方で、

自分が太っているという事実が何者にも代えがたい苦痛で、それを解消するための努力はある程度強めのモチベーションになってんのかなと感じた。

 

 

まあなんか自分だけの習性みたいな書き方してるけど、割とみんなそうだとは思う。

プロスペクト理論みたいなんあるよね、失う悲しみのほうが強い的なやつ。今回の話でいうと何かを得るために努力するのは難しいが、太る(これは自分にとっては許されない損失である)ことは回避するための努力は損失回避の傾向から比較的容認されるみたいな感。

 

 

だからムキムキになろうみたいな気持ちは一切なく(別にちょっとなりたいって思ったぐらいでマッチョになれるなんて思ってないですよ、一応ね。なんかネットにいる筋トレしてる人ってこういうの厳しいよな~自分を痛めつける前に人に優しくなったほうがいいと思うけどな)とにかく現状維持。自分にとっての維持すべき現状は太っていない状態。って感じだなあと。

 

安寧、現状維持。みんな好きでしょ。

俺は好きだよ、お前のことが。ずっと...








~Fin~

 

 

 

 

これまでに失ったものを数えていたらどれもかけがえのないものでワロタ

 

時間が経つと友達が減っていくのが本当に悲しい。増加の一途をたどってほしいという欲望をずっと持ち続けている。

 

 

 

 

俺のことなんてもう忘れたかもしれない人間のことを、特別強い気持ちがあった人でなくてもたびたび思い出す時間がある。
確かにある。

 


終電がなくなる時間まで飲んだあと、歩いて帰る道の途中にあった公園で2人でブランコを漕ぎながら仕事に行きたくないと言っていたこととか、今は連絡をとっていない人との過去をなんとなく覚えている。

 

 

自分のことなんてもう忘れているだろうなと思いながら俺のことを思い出してくれている人がどこかに、ほんの少しでもいてくれたらいいなとか思う。
欲を言えばまた遊んでみたりしたいけども、それは難しいんだろうなとか。


ダメ元で連絡とかできない?できないか...ごめん。

 

 

 

わかんないけど、もしかしたらおれのことをまだ強烈に覚えていて、だけれどもこっちが全く覚えていないような人もいるかもしれない。

 


そういや記憶力には自信がない。
興味関心のないことに対する記憶力にかけては特に。或いはみんなそんなもんなんだけど、俺よりもほんのちょっとだけ世界の色々に関心を持って生きているだけかもしれない。それはそれで悲しい。

俺が忘れていないと思い込んでいるだけで本当はいろんな人のことが記憶から徐々になくなっていて、それでも覚えている人は当然自分が好きだったり嫌いだったりした人だからやっぱりまた話してみたいなとか思ってたりして。

 

 

でもたぶん覚えてると思う。昔俺と仲良かったなと思っている人がいれば、それはたぶん本当で、今でも俺は大事に思っているし大事に思っててほしいなみたいなことも思ってる。

 

なんせ友達がそもそも多いほうじゃないし(つよがってごめん、少ないです)交友関係を広げるのも得意ではないから、友達の絶対量が着々と目に見えて減少しています。実感として、かなり。

 

 

 

もしこれを読んで久しぶりにおれのことを思い出したみたいな人がいたら、頼むから連絡してみてほしい。こんなブログわざわざ開いて最後まで読んでる人にそんな人いるかどうかわかんないけど。

話しかける話題も思いつかねーよって人はオススメの美容液(毛穴ひきしめてくれるやつ)とかラーメン(油そばも)とか教えてください。

気長に待ってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外資系の金玉

キンタマジャパン

本を読む。生きる。

 

Twitterには長すぎる、ブログには短すぎる文章をできるだけ簡略化して140文字に収めようが枝葉を加えて冗長な文にしようが、どちらも俺の100%の本意ではない嘘なのではないかという思いがほんの少しだけある。

 

だから、もしかすると短すぎるかもしれないが、考えていたことありのままをブログに残すことにした。
別に実際は140字より短いブログを書いたって構わないのだけれど、これは俺の気持ち的な住み分けの問題。結果として思ったことを綴った文章が普段のブログと同じ長さになっても、普段より長くなってもこの前書きは消さない。誠実ではないかもしれないけど。

 

 

趣味といえるほど沢山してる訳でもないが、偶に思いたったように小説を読む。

小説を読んでご飯食べて寝るだけの生活をしていて、たぶん俺の没入は専ら現実より寧ろ出来のいい小説に向けられているなと思った。

 

現実の特に他者の喪失に対しては殆ど感情が動かないが、小説に関しては自分のことのように或いは自分のこと以上にやるせなさを感じる。
自分のこと以上に感じる理由はたぶん、小説においての自分は感情移入はできこそすれ、他にできることは何もなく、正しく無力であるから現実にも存在するどうしようもなさが確定要素として現実以上にのしかかってくるからだと思う。

 

結局のところただの逃避なのかもしれない。現実の不条理にはある程度己が力で変えられる側面がある。これは卑屈になりすぎで、もしかしたら大半の部分は自身の行動如何によって幾らでも好転させることができるのかもしれない。


それから目を背けて小説を読んでみて、感情の全てを注ぎ込んでみて、そうすると自分ではない何者かの人生が自分のことのように感じられ、しかし全ての出来事が確定事項として行動や気持ちによって変わることの無い事実として存在する。何をしてもしなくても否応なくスペクタクルが起き、それを鑑賞する。人生とはそういうものなのだと諦観する。そんな風に虚構を現実として、現実を虚構として逃げているのかもしれない。

 

現実逃避というと悪く聞こえるかもしれないが、小説の楽しみ方の1つとしてそういうのがあってもいいと思う。つらく退屈な現実から目を背け、もうひとつの現実として幸福を夢想した経験は誰しもあるだろうし。

つらい現実にはその後で向き合えばいい、別に向き合わないまま逃げ続けてもいいかもしれない。

 

 

 

一応最後に日記的なことを書いておくと、前回とか前々回とかのブログに書いた読みかけの本は読み終わった。感想は割愛。

 

あ。本を読み終えたのはそこそこ前の話、前のブログを書いた次の日に投稿しようと思ってほとんど書いたけど、いろいろ書いては消してを繰り返したり気持ちが乗らなかったりして時間が空きました。謝罪。それと結局いつもとそこまで変わらない長さになった、重ねてごめん。でも短め。

なにかのせいにするということ

 

発達障害や鬱の人は病院に行き自身の抱えている負の特徴(これは当人がそう思っている場合の話をしているので私が何かしらの特性について絶対的にマイナスであると考えている訳ではない)に名前を付けてもらうことである種の安心を覚えることは少なくないだろう。

 

己の例えばすべきことができないという(ある人にとっては)困った特性の全てが自身の怠惰さに由来するものではなく、脳のどこかしらの働きがそういった特性を持たない人と異なっていることに(少なくともある程度は)起因しているからだと考えることができる。

 

つまりそういった特性による不利益の責任の所在が自分ではなく脳の構造であったり病気であったりに存在すると認識することで自責の感情を少し抑えられるかもしれない。

 

 

この操作はたぶん重要なことで、もしかしたら頭の固い人はすべてを障害や病気のせいにして自身の生み出した不利益から逃避しているといって非難するかもしれないが、全くそのような言説を他人に押し付けるのは品がない。

 

そもそも人生とは一度きりのもので完全に自分のものである。

世界というものは(公共の福祉に反しない限り)自分の都合がいいように解釈し、その規範に基づいて行動すればいいのである。

 

であれば、なにかしら自分に不都合な出来事が起こってしまった場合、その責任を自分以外のもの(ここでは障害や病気を例にしているが、別に他人や物であっても構わない)にあると考えることは全く自然な防衛機制であり、咎められる所以もない。

 

よく言われる話で、不都合な結果に対して責任を自分以外の人や物にあると考え自分を省みないと、成長がないので常に自責の念を持つべき(勿論反省すべき点があればだが)みたいな主張がある。

この主張は概ね正しいと思う。

 

しかし、これは成長をしたくば他人に責任を押し付けるのをやめるべきであるという言説であって、そもそも成長自体が必ずしもすべきものではない以上、成長しないことなど全く厭わないという人間にとって不利益が全く自分の責任であると捉えねばならない理由にはなりえない。

 

チームゲームで負けた責任を味方のせいにする人間は上手くならないというのは恐らく正しい主張であると思うが、ゲームをプレイするうえで上手くなろうとは思っていない場合は存分に味方のせいにして自分の非は一切ないと考えてもいい。

 

勿論それによって他者に暴言を吐いたり、危害を加える行為に及んだりすることは容認できない場合が多い。それは公共の福祉に反しているから。責任が他方にあると考え自身のメンタルを守ることと、責任があると考えた人間を糾弾することは全く別物であることはこのような拙筆を読んでいただいている聡明な皆さま(※このブログを読んでいただけるのが嬉しいので、読んでくださる方全般を手放しに称賛していますが、もしかしたら聡明でない方もいらっしゃるかもしれません)なら当然ご理解いただけているでしょう。

 

ある点での成長とメンタルの安定を考えた時にどちらを選ぶかは意見が分かれるところではあるかもしれないが、

この問いに対して後者を選ぶ人は積極的に種々の不都合や不利益を何かしらのせいにして生きていこう。

 

 

壊れちゃったら意味ないので。

 

 

以前は1日を無駄に浪費することに対する絶望に近い恐怖があったように感じる。

単にその日が消えてなくなってしまうことを憂いているのではなくて、無為に消費されてしまった今日の様に明日もその次もずっと同じように意味なく泡のように霧散してしまうのではないかという意味のない妄想。

実際はそんなことはなかったりする。ないとも言いきれない怖さは今でもなくなってはいないけど、明日は今日の生き写しではないし、昨日を模倣して生きなきゃいけないこともない。

もっと言えば同じように生きようとしたって全く同じ帰結にはならないし、昨日と同じ答えが見つかるわけでもない、世界は勝手に変わっていく。大袈裟なことを言わずとも、少なくとも俺は変わっていく。

 

今まで頭をどんなに巡らせてもわからなかったことが急にわかったりする、やっぱり今日もわからなかったりする。必死に藻掻いてるうちに光明が差すこともあれば、なんとはなしに答えを拾ったりする。

捜し物は探すのをやめると見つかると言うけれど、探し続けてれば見つかることも普通にある。本当にそれだけの話。

 

 

わざと特筆するようなことじゃない。俺は今日も1日を浪費した。わかんないけどたぶん明日も。

雨が降りそうだったか、或いは降っていたか、それは昨日と同じ。
コーヒーを飲んで、煙草を吸って、読みかけの本を途中まで読んで、ラーメン屋に行ってちょっと長い距離歩いて帰った。昨日と同じ。
ただ一応、時間はちょっと違うし場所も全然違った。昨日より雨が強くてたくさん濡れた。
今日行ったラーメン屋は前に来た時と違って食券機は廃止されてたけど、前と同じものを頼んだ。

 

それでいいかどうかなんて知らないし、知ってる人がいても聞かない。聞いても俺の人生を歪める理由にはならないと思う。

でもとりあえず生きてるしまぁいいかなとか。

 

 

やらなきゃいけないことが沢山ある、これまでもこれからも。その殆どをやらずに生きてきた。これからは知らないけど、そんなにすぐには変わらない。

なにかのせいにしたりしなかったりしてとりあえずダラダラと生きている。

最期に正解でも聞かせてもらおうかな、誰でもいいから。

 

 

 

というわけで、後半急に方向転換して、自己弁護と日記を合わせたブログ。

 

普段より少しだけ長めに書いてみたけど、短い方がよかったら教えてください。こんな駄文を最後まで読んでる物好きに聞いても公正なサンプルは得れないかもしれないけど。

別に時間を無駄にしてるとか言ってないです。先に書いたようにどう生きるかは全く自由なので、俺個人としてらひたすらに感謝。読んでくれてありがとう。また気が向いたら書きます。

 

 

日記(8/29)

雨が降りそうだったから一駅分歩いて帰った

実家に帰省しているから特にやる事がなくても朝起きて夜寝る生活リズムが確立されている。やる事もないのに早く起きてしまったから、読みかけの本だけ鞄に入れて出かけた。

親が煙草を吸うことをよく思っていないのを知っているので帰省してからしばらく控えていた。別になくてはならない大切なものでもないし、なんか一つ吸わない理由があれば吸わないでもいられるぐらいのもんだから、そんなに苦しくもないけど絶対に禁煙してやろうというほどでもない。もし可愛い彼女が俺に煙草をやめてくれというなら急いでやめる準備はできている。彼女がいればの話。

 

茶店でたまに煙草を吸いながらコーヒーを飲んで読書に勤しむ。順風満帆な人生の優雅な週末みたいな過ごし方をした。めちゃくちゃ平日でお先真っ暗だが。どんな付加情報があってもこの一日にケチはつかないはずだ、きっと。

 

俺がもってまわったような難しい言い回しで文章を書いてみることは決して高尚なモノに見せたいとか、面白く読んでもらおうとかそんな計略ではなくて、単にそういう日本語の遊びみたいな文を書くのが気持ちいいからそうしているだけであって、読む人や文章そのものに一切気を使っていない全くエゴイズムのみの稚拙な作文である。

だから別に気負って読んで貰う必要はないし、まして重厚な文として扱ってもらう為にわざと偉そうに書いていると思われるのは最悪なので、そんな感想を抱かれるぐらいであれば単に下手な言葉を捏ねくりまわして伝わらない様にしているとバカにしてもらいたい。
中二病がいきすぎていると言ってもらっても構わない。事実それはそうなので。

俺は形容しがたい宙ぶらりんの感情を捻って言葉にするのが好きでそういうブログばかり書いていたが、最近できるだけ言語化しない抽象によるエモさみたいなものにハマっていたせいでブログの更新が遅れてしまった。全く申し訳ないとは思っていない。俺のブログを待っている人間はみんなおかしいから。

 

 

あんまり長くみんなわかってることをグダグダ書いているとそのうち怒られそうなので、みんな知ってることを最後に書いて終わります。
風呂入んのはどんどんダルくなっていくから家帰ってすぐ入るのが一番いい。

 

兎に角俺は今日小説を読んで雨が降りそうだったから早めに帰ろうと思い、つけ麺を食ってから帰った。家に帰るまで煙草の匂いを少しでも消そうといつもより少し長く歩こうかなとか思って。ちょっと濡れた。まだ読みかけの本と煙草を鞄に入れて。

 

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肯定

 

希死念慮が強い人とか、自己肯定感が低い人とかはほっとくと勝手に死んじゃう可能性があるので傷を舐めあって生きてたりします。

自分の全てを肯定され相手の全てを肯定することでアンバランスな足元の上でお互いに手を取り合って支えあっています。

 

 

自分はたぶん自己肯定感はそんなに高くない方ですけど、「生きてるだけで偉い」なんて空虚な言葉をかけられるのは嫌です。

 

否定はあんまりされたくないですが

全肯定は嫌いです。

 

書いていて思ったのですが、もしかしたら私が全肯定を否定する理由は自分のことを見てほしいからかもしれないです。

全てを肯定されるということは私の振る舞いや思考の如何に依らず全てを認められるということなので、それは全く意味のない承認であって否定されてようが肯定されてようが無意味に思えるからな気がします。

 

もちろんそういった肯定を受けてギリギリ保ってる人間の事を否定する気は全くありませんし、それで友達が生きてくれるなら方法なんてなんでも構わないです。

 

 

でも自分の意見を実直に述べるのであれば、

生きてるだけでは別に偉くないし、偉くある必要もないです。

 

ただひとつあるとすれば貴方のことが好きな人は貴方が生きてるだけで嬉しいと思います。

たぶん本当にそれだけです。

 

付け加えると生きてるだけで偉いって言葉が嫌いな理由のひとつとして偉くなくてはいけないように聞こえてしまうというのもある気がします。そもそも偉くなくてもいいのに死んでない人間を捕まえてその人が持っている生をわざわざ褒めるのがなんか嫌です。生きてて嬉しいよでいいと思うんですけど。

 

 

 

自分以外の誰かが自分の内包された苦しみを全部理解出来るわけないので、

“なんもわかってない”人(これは自分以外の全員、ともすれば自分も含めた全人類)が無責任に生を望むのは大きな呪いであるから、それを避けようとした結果なのかもしれませんが、他者の存在が生きる理由になるのであれば、死ぬ理由を超えるのであれば、全く呪いであっても構わない。そう思います。

 

 

莫大な悩みの殆どは死ぬに値しないようなものばかりです。小さい悩みでも当人にとっては生きる理由の全てを超越しうる理由になるでしょうが。

自分の幸せから目を逸らして逃げないでください。これは願いです。

 

私がどうしようもなく死にたさを抱えている時でも同じように思っています。

 

 

今は死にたくないです、死ぬのが怖いので、或いは貧乏性だからかもしれません。

 

でも生きてりゃいいです。それ以外はあとから勝手についてくるので。

 

 

ちなみに今までに書いた理論は全部後付けです。感情が先にあってそれを正当化する理論をあとから構築しようとしただけで、こういうことを考えた結果自分の気持ちができた訳ではありません。

俺は死にたくないし、友達にも死んで欲しくない、それだけです。

 

本当はもう少し書きたい内容があってこのブログを書き始めたはずなんですけど書いてたら忘れました。

思い出したら加筆します。

 

 

 

寒いっすね、冬。