ぶろぐ

毒にも薬にもなりませんが、私の内面を少し知れるブログです。

本を読む。生きる。

 

Twitterには長すぎる、ブログには短すぎる文章をできるだけ簡略化して140文字に収めようが枝葉を加えて冗長な文にしようが、どちらも俺の100%の本意ではない嘘なのではないかという思いがほんの少しだけある。

 

だから、もしかすると短すぎるかもしれないが、考えていたことありのままをブログに残すことにした。
別に実際は140字より短いブログを書いたって構わないのだけれど、これは俺の気持ち的な住み分けの問題。結果として思ったことを綴った文章が普段のブログと同じ長さになっても、普段より長くなってもこの前書きは消さない。誠実ではないかもしれないけど。

 

 

趣味といえるほど沢山してる訳でもないが、偶に思いたったように小説を読む。

小説を読んでご飯食べて寝るだけの生活をしていて、たぶん俺の没入は専ら現実より寧ろ出来のいい小説に向けられているなと思った。

 

現実の特に他者の喪失に対しては殆ど感情が動かないが、小説に関しては自分のことのように或いは自分のこと以上にやるせなさを感じる。
自分のこと以上に感じる理由はたぶん、小説においての自分は感情移入はできこそすれ、他にできることは何もなく、正しく無力であるから現実にも存在するどうしようもなさが確定要素として現実以上にのしかかってくるからだと思う。

 

結局のところただの逃避なのかもしれない。現実の不条理にはある程度己が力で変えられる側面がある。これは卑屈になりすぎで、もしかしたら大半の部分は自身の行動如何によって幾らでも好転させることができるのかもしれない。


それから目を背けて小説を読んでみて、感情の全てを注ぎ込んでみて、そうすると自分ではない何者かの人生が自分のことのように感じられ、しかし全ての出来事が確定事項として行動や気持ちによって変わることの無い事実として存在する。何をしてもしなくても否応なくスペクタクルが起き、それを鑑賞する。人生とはそういうものなのだと諦観する。そんな風に虚構を現実として、現実を虚構として逃げているのかもしれない。

 

現実逃避というと悪く聞こえるかもしれないが、小説の楽しみ方の1つとしてそういうのがあってもいいと思う。つらく退屈な現実から目を背け、もうひとつの現実として幸福を夢想した経験は誰しもあるだろうし。

つらい現実にはその後で向き合えばいい、別に向き合わないまま逃げ続けてもいいかもしれない。

 

 

 

一応最後に日記的なことを書いておくと、前回とか前々回とかのブログに書いた読みかけの本は読み終わった。感想は割愛。

 

あ。本を読み終えたのはそこそこ前の話、前のブログを書いた次の日に投稿しようと思ってほとんど書いたけど、いろいろ書いては消してを繰り返したり気持ちが乗らなかったりして時間が空きました。謝罪。それと結局いつもとそこまで変わらない長さになった、重ねてごめん。でも短め。

なにかのせいにするということ

 

発達障害や鬱の人は病院に行き自身の抱えている負の特徴(これは当人がそう思っている場合の話をしているので私が何かしらの特性について絶対的にマイナスであると考えている訳ではない)に名前を付けてもらうことである種の安心を覚えることは少なくないだろう。

 

己の例えばすべきことができないという(ある人にとっては)困った特性の全てが自身の怠惰さに由来するものではなく、脳のどこかしらの働きがそういった特性を持たない人と異なっていることに(少なくともある程度は)起因しているからだと考えることができる。

 

つまりそういった特性による不利益の責任の所在が自分ではなく脳の構造であったり病気であったりに存在すると認識することで自責の感情を少し抑えられるかもしれない。

 

 

この操作はたぶん重要なことで、もしかしたら頭の固い人はすべてを障害や病気のせいにして自身の生み出した不利益から逃避しているといって非難するかもしれないが、全くそのような言説を他人に押し付けるのは品がない。

 

そもそも人生とは一度きりのもので完全に自分のものである。

世界というものは(公共の福祉に反しない限り)自分の都合がいいように解釈し、その規範に基づいて行動すればいいのである。

 

であれば、なにかしら自分に不都合な出来事が起こってしまった場合、その責任を自分以外のもの(ここでは障害や病気を例にしているが、別に他人や物であっても構わない)にあると考えることは全く自然な防衛機制であり、咎められる所以もない。

 

よく言われる話で、不都合な結果に対して責任を自分以外の人や物にあると考え自分を省みないと、成長がないので常に自責の念を持つべき(勿論反省すべき点があればだが)みたいな主張がある。

この主張は概ね正しいと思う。

 

しかし、これは成長をしたくば他人に責任を押し付けるのをやめるべきであるという言説であって、そもそも成長自体が必ずしもすべきものではない以上、成長しないことなど全く厭わないという人間にとって不利益が全く自分の責任であると捉えねばならない理由にはなりえない。

 

チームゲームで負けた責任を味方のせいにする人間は上手くならないというのは恐らく正しい主張であると思うが、ゲームをプレイするうえで上手くなろうとは思っていない場合は存分に味方のせいにして自分の非は一切ないと考えてもいい。

 

勿論それによって他者に暴言を吐いたり、危害を加える行為に及んだりすることは容認できない場合が多い。それは公共の福祉に反しているから。責任が他方にあると考え自身のメンタルを守ることと、責任があると考えた人間を糾弾することは全く別物であることはこのような拙筆を読んでいただいている聡明な皆さま(※このブログを読んでいただけるのが嬉しいので、読んでくださる方全般を手放しに称賛していますが、もしかしたら聡明でない方もいらっしゃるかもしれません)なら当然ご理解いただけているでしょう。

 

ある点での成長とメンタルの安定を考えた時にどちらを選ぶかは意見が分かれるところではあるかもしれないが、

この問いに対して後者を選ぶ人は積極的に種々の不都合や不利益を何かしらのせいにして生きていこう。

 

 

壊れちゃったら意味ないので。

 

 

以前は1日を無駄に浪費することに対する絶望に近い恐怖があったように感じる。

単にその日が消えてなくなってしまうことを憂いているのではなくて、無為に消費されてしまった今日の様に明日もその次もずっと同じように意味なく泡のように霧散してしまうのではないかという意味のない妄想。

実際はそんなことはなかったりする。ないとも言いきれない怖さは今でもなくなってはいないけど、明日は今日の生き写しではないし、昨日を模倣して生きなきゃいけないこともない。

もっと言えば同じように生きようとしたって全く同じ帰結にはならないし、昨日と同じ答えが見つかるわけでもない、世界は勝手に変わっていく。大袈裟なことを言わずとも、少なくとも俺は変わっていく。

 

今まで頭をどんなに巡らせてもわからなかったことが急にわかったりする、やっぱり今日もわからなかったりする。必死に藻掻いてるうちに光明が差すこともあれば、なんとはなしに答えを拾ったりする。

捜し物は探すのをやめると見つかると言うけれど、探し続けてれば見つかることも普通にある。本当にそれだけの話。

 

 

わざと特筆するようなことじゃない。俺は今日も1日を浪費した。わかんないけどたぶん明日も。

雨が降りそうだったか、或いは降っていたか、それは昨日と同じ。
コーヒーを飲んで、煙草を吸って、読みかけの本を途中まで読んで、ラーメン屋に行ってちょっと長い距離歩いて帰った。昨日と同じ。
ただ一応、時間はちょっと違うし場所も全然違った。昨日より雨が強くてたくさん濡れた。
今日行ったラーメン屋は前に来た時と違って食券機は廃止されてたけど、前と同じものを頼んだ。

 

それでいいかどうかなんて知らないし、知ってる人がいても聞かない。聞いても俺の人生を歪める理由にはならないと思う。

でもとりあえず生きてるしまぁいいかなとか。

 

 

やらなきゃいけないことが沢山ある、これまでもこれからも。その殆どをやらずに生きてきた。これからは知らないけど、そんなにすぐには変わらない。

なにかのせいにしたりしなかったりしてとりあえずダラダラと生きている。

最期に正解でも聞かせてもらおうかな、誰でもいいから。

 

 

 

というわけで、後半急に方向転換して、自己弁護と日記を合わせたブログ。

 

普段より少しだけ長めに書いてみたけど、短い方がよかったら教えてください。こんな駄文を最後まで読んでる物好きに聞いても公正なサンプルは得れないかもしれないけど。

別に時間を無駄にしてるとか言ってないです。先に書いたようにどう生きるかは全く自由なので、俺個人としてらひたすらに感謝。読んでくれてありがとう。また気が向いたら書きます。

 

 

日記(8/29)

雨が降りそうだったから一駅分歩いて帰った

実家に帰省しているから特にやる事がなくても朝起きて夜寝る生活リズムが確立されている。やる事もないのに早く起きてしまったから、読みかけの本だけ鞄に入れて出かけた。

親が煙草を吸うことをよく思っていないのを知っているので帰省してからしばらく控えていた。別になくてはならない大切なものでもないし、なんか一つ吸わない理由があれば吸わないでもいられるぐらいのもんだから、そんなに苦しくもないけど絶対に禁煙してやろうというほどでもない。もし可愛い彼女が俺に煙草をやめてくれというなら急いでやめる準備はできている。彼女がいればの話。

 

茶店でたまに煙草を吸いながらコーヒーを飲んで読書に勤しむ。順風満帆な人生の優雅な週末みたいな過ごし方をした。めちゃくちゃ平日でお先真っ暗だが。どんな付加情報があってもこの一日にケチはつかないはずだ、きっと。

 

俺がもってまわったような難しい言い回しで文章を書いてみることは決して高尚なモノに見せたいとか、面白く読んでもらおうとかそんな計略ではなくて、単にそういう日本語の遊びみたいな文を書くのが気持ちいいからそうしているだけであって、読む人や文章そのものに一切気を使っていない全くエゴイズムのみの稚拙な作文である。

だから別に気負って読んで貰う必要はないし、まして重厚な文として扱ってもらう為にわざと偉そうに書いていると思われるのは最悪なので、そんな感想を抱かれるぐらいであれば単に下手な言葉を捏ねくりまわして伝わらない様にしているとバカにしてもらいたい。
中二病がいきすぎていると言ってもらっても構わない。事実それはそうなので。

俺は形容しがたい宙ぶらりんの感情を捻って言葉にするのが好きでそういうブログばかり書いていたが、最近できるだけ言語化しない抽象によるエモさみたいなものにハマっていたせいでブログの更新が遅れてしまった。全く申し訳ないとは思っていない。俺のブログを待っている人間はみんなおかしいから。

 

 

あんまり長くみんなわかってることをグダグダ書いているとそのうち怒られそうなので、みんな知ってることを最後に書いて終わります。
風呂入んのはどんどんダルくなっていくから家帰ってすぐ入るのが一番いい。

 

兎に角俺は今日小説を読んで雨が降りそうだったから早めに帰ろうと思い、つけ麺を食ってから帰った。家に帰るまで煙草の匂いを少しでも消そうといつもより少し長く歩こうかなとか思って。ちょっと濡れた。まだ読みかけの本と煙草を鞄に入れて。

 

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肯定

 

希死念慮が強い人とか、自己肯定感が低い人とかはほっとくと勝手に死んじゃう可能性があるので傷を舐めあって生きてたりします。

自分の全てを肯定され相手の全てを肯定することでアンバランスな足元の上でお互いに手を取り合って支えあっています。

 

 

自分はたぶん自己肯定感はそんなに高くない方ですけど、「生きてるだけで偉い」なんて空虚な言葉をかけられるのは嫌です。

 

否定はあんまりされたくないですが

全肯定は嫌いです。

 

書いていて思ったのですが、もしかしたら私が全肯定を否定する理由は自分のことを見てほしいからかもしれないです。

全てを肯定されるということは私の振る舞いや思考の如何に依らず全てを認められるということなので、それは全く意味のない承認であって否定されてようが肯定されてようが無意味に思えるからな気がします。

 

もちろんそういった肯定を受けてギリギリ保ってる人間の事を否定する気は全くありませんし、それで友達が生きてくれるなら方法なんてなんでも構わないです。

 

 

でも自分の意見を実直に述べるのであれば、

生きてるだけでは別に偉くないし、偉くある必要もないです。

 

ただひとつあるとすれば貴方のことが好きな人は貴方が生きてるだけで嬉しいと思います。

たぶん本当にそれだけです。

 

付け加えると生きてるだけで偉いって言葉が嫌いな理由のひとつとして偉くなくてはいけないように聞こえてしまうというのもある気がします。そもそも偉くなくてもいいのに死んでない人間を捕まえてその人が持っている生をわざわざ褒めるのがなんか嫌です。生きてて嬉しいよでいいと思うんですけど。

 

 

 

自分以外の誰かが自分の内包された苦しみを全部理解出来るわけないので、

“なんもわかってない”人(これは自分以外の全員、ともすれば自分も含めた全人類)が無責任に生を望むのは大きな呪いであるから、それを避けようとした結果なのかもしれませんが、他者の存在が生きる理由になるのであれば、死ぬ理由を超えるのであれば、全く呪いであっても構わない。そう思います。

 

 

莫大な悩みの殆どは死ぬに値しないようなものばかりです。小さい悩みでも当人にとっては生きる理由の全てを超越しうる理由になるでしょうが。

自分の幸せから目を逸らして逃げないでください。これは願いです。

 

私がどうしようもなく死にたさを抱えている時でも同じように思っています。

 

 

今は死にたくないです、死ぬのが怖いので、或いは貧乏性だからかもしれません。

 

でも生きてりゃいいです。それ以外はあとから勝手についてくるので。

 

 

ちなみに今までに書いた理論は全部後付けです。感情が先にあってそれを正当化する理論をあとから構築しようとしただけで、こういうことを考えた結果自分の気持ちができた訳ではありません。

俺は死にたくないし、友達にも死んで欲しくない、それだけです。

 

本当はもう少し書きたい内容があってこのブログを書き始めたはずなんですけど書いてたら忘れました。

思い出したら加筆します。

 

 

 

寒いっすね、冬。

 

 


心の最奥から湧いてくる爆発的な衝動をフィクションやらエンタメの種にして、創造の中に必死に押し込みながら何もないような顔をして普段通りの生活を送っている。

みんな

あい

 

こんちゃす、どうも。俺のTwitterを見ずにブログだけを見ている人(マジでこの世に存在しない)にとってはお久しぶりです。存在しない人にも挨拶をしています。墓参りと一緒ですね。それはさておき

 

 

元気ですか!!??

 

 

元気じゃねえかあ。元気じゃねえよな、クソみたいな世の中をみんな頑張って生きてるもんなあ。生きるのに精一杯で元気でいる余裕とかもうないよな。

 

@元気な人 いいね!!サイコー!!!!!

 

 

どうしてもやんなきゃいけない事とかたくさんあってきついよな。俺はたくさん寝て飯食って友達とゲームしてまた寝たいだけなんすけど。

ダメなの??

 

はぁ!!!??????????????????????????????

 

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怒ってる人の例



 

やっぱ生きてるとさ、生きていく上でやらないといけないことがいっぱいあって。

 

え?


やんなきゃいけないことってなんなん?

何かしら責務を果たしていないと生きてちゃいけないってこと??

生きるのに資格がいるんすか!?

友達になるのにだって資格なんていらないってゴンも言ってたのに!!!

 

 

 

なに?なんスカ???

 

 

 

 

 

すみません。取り乱してしまいました。

 

 

たしかにね、私は怠惰な人間ですよ。今日も勉強しようと思って朝から出かけたけどマジでやる気でなくて全然進まなかったですよ。

 

 

でもね???

 

 

ちょっとだけ考えて欲しいんだわ、時間はとらせないからさ。ちょっとだけね。

 

俺が豚バラだったとするじゃん?

いやもうこの際豚こまでもいいよ、安いからね。

豚こまの安さ知っちゃったらもうね、他の肉が逆に高く見えちゃって大変ですよね。

ぶっちゃけカレーとかそういうのに使う分にはいろんな部位あっても全然問題ないし、何ならその方がいいまであるか。

 

まぁそれはそれとして俺が豚こまだとしたらさ

俺は大学行ってるわけなんだから(しかも大学院にも受かってる(合格してるだけなので大学を卒業出来なかったら行けないかもしれない))めちゃめちゃ凄いわけじゃん。

 

大学通ってる豚肉知らないでしょ、知ってる?知ってるなら教えてみてよ俺より単位とってる豚肉がいるならさぁ????

 

 

俺は怠惰だけど大学で単位とってんのよ?

それってすごくない?

すごくないと思うって?

じゃあ黙ってればいいじゃん

何でもかんでも口に出してさぁ!

 

 

殺すぞ!!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

ッス

 

 

 

 

誰がために人は生きる

どうでもいいことを考えるのが趣味なので度々自分は何故、何のために生まれて、生きているのかみたいな問答を目にすることがある。 

様々な人が種々の意見を唱え、答えらしきものを探してみても当然正しい解なんてものもないのだから話は永遠に平行線で結局「わかんないね」という結論で終わる。 
私も意味のないことを考えて時間を浪費しながら生きている訳だからそういう話が好きな人の事をバカにする気は毛頭ないが、こんな議論を長々と続けることはくだらないと思っている。
 
 私の考えを述べるのであれば生まれた意味、生きている意味なんて存在しない。 
強いて言えば生きることそのもの生まれてきた意味であり、目的だと思う。あとの小さい何某は人によって異なる形を持っているだろう。
 
 人間以外の動植物がどれほどの知能を携え“生”について思案しているのかは私には知る由もないが、人間は幾分か脳が発達してしまったが故にありもしない大きな力による思惑を模索しているように見える。
 
 私は神とか仏とかそういうものをあまり信じていないので(というより我々が認識できる外側の存在なんて、いようがいまいが私の人生には全く影響がないのだから、存在が確認できない以上いないと考えても大して問題はないだろうと考えているだけだが)、予定説的なものはあまり好きじゃない。 
貴方には神から生まれついてこういう試練が与えられていますよと言われてもそんなもんに従う義理もないし、聞くところによると神様というのは全知全能のようだから、仮に何かしらの目的や意味が自分の人生にあったとしても、自分の好きなようにやりたいことをやって生き、死んだ結果も当然神様の予定通りなんだろうからわざわざ自らの使命らしきものについて深く考え従順になる必要もないだろう。 
生物の中には生まれた瞬間から子孫を残す行為のみを行い、役目を終えれば死ぬものもある。生まれ、死ぬだけの生物の生になんの意味があるというのだろうか。 種の存続が目的であると言われれば最もらしいが、ではその種を保存することが彼らにとってどのような意味が存在しうるのか、この問題は人生に意味があるのかという問いが少し大きくなっただけで本質的には何も変わっていない、生きる意味に対する答えにはなりえない。 
その中で人間だけが特別な意味を与えられ目的に向かって生きていくのが自然だと考えるのは大きな傲慢ではないだろうか。
 
 たまたま生まれてしまったんだから難しいことを考えずに自分のやりたいことをやれるだけやればいいんじゃないかと思う。禁じられたことまで全部やっていいかという話はまた別の問題になるからここでは割愛するが、少なくとも公共の福祉に反しない限りは。
 
 やりたいことがないなら別に今すぐ死んだって構わない。それが人生において唯一やりたいことであれば。 
ただひとつ問題なのは自分が何をやりたいのかわかんないこともよくあるということだ。やりたい事なんか一つもないと思っていたとしても果たしてそれが自分の真意なのかを確かめるのは難しい。一瞬の感情に任せて死を選んでしまうのは早計かもしれない。 
これは何一つやりたい事なんかなくてどうしようもなく死にたがっている私の友達に向けたエゴイズムの言い訳でもある。 
 
 でも、別に大それた望みなんかなくとも、明日もご飯が食べたいなら、惰眠を貪りたいなら、ゲームがしたいなら、友達とお話がしたいなら、
とりあえず死ぬまで生きてみればいいんじゃないかなと思う。 
 絶望ばっかに見えたとしても意外と楽しいこともあるかもしれないし 
 
本当に人生が無味乾燥なら私が付き合ってあげてもいい
もしかしたらちょっとは面白くなるかもしれない。
 
もし私の友達がとりあえず精一杯楽しく生きてみて、それでも死ぬまで楽しいことがなんもなかったと思うならそん時はしっかり謝ってあげるので
死んだら連絡ください
 
 
なんのために生まれて、なにをして生きるのか こたえられなくてもまー別にいいんじゃないですか。
 
 
 久しぶりにブログを更新したと思ったらまたこんな話をしています。ご意見ご不満あればなんなりと。気が向いたらまた描きます。
なんかバグっててレイアウトがおかしいかもなので読みにくかったら申し訳ない