ぶろぐ

毒にも薬にもなりませんが、私の内面を少し知れるブログです。

なにかのせいにするということ

 

発達障害や鬱の人は病院に行き自身の抱えている負の特徴(これは当人がそう思っている場合の話をしているので私が何かしらの特性について絶対的にマイナスであると考えている訳ではない)に名前を付けてもらうことである種の安心を覚えることは少なくないだろう。

 

己の例えばすべきことができないという(ある人にとっては)困った特性の全てが自身の怠惰さに由来するものではなく、脳のどこかしらの働きがそういった特性を持たない人と異なっていることに(少なくともある程度は)起因しているからだと考えることができる。

 

つまりそういった特性による不利益の責任の所在が自分ではなく脳の構造であったり病気であったりに存在すると認識することで自責の感情を少し抑えられるかもしれない。

 

 

この操作はたぶん重要なことで、もしかしたら頭の固い人はすべてを障害や病気のせいにして自身の生み出した不利益から逃避しているといって非難するかもしれないが、全くそのような言説を他人に押し付けるのは品がない。

 

そもそも人生とは一度きりのもので完全に自分のものである。

世界というものは(公共の福祉に反しない限り)自分の都合がいいように解釈し、その規範に基づいて行動すればいいのである。

 

であれば、なにかしら自分に不都合な出来事が起こってしまった場合、その責任を自分以外のもの(ここでは障害や病気を例にしているが、別に他人や物であっても構わない)にあると考えることは全く自然な防衛機制であり、咎められる所以もない。

 

よく言われる話で、不都合な結果に対して責任を自分以外の人や物にあると考え自分を省みないと、成長がないので常に自責の念を持つべき(勿論反省すべき点があればだが)みたいな主張がある。

この主張は概ね正しいと思う。

 

しかし、これは成長をしたくば他人に責任を押し付けるのをやめるべきであるという言説であって、そもそも成長自体が必ずしもすべきものではない以上、成長しないことなど全く厭わないという人間にとって不利益が全く自分の責任であると捉えねばならない理由にはなりえない。

 

チームゲームで負けた責任を味方のせいにする人間は上手くならないというのは恐らく正しい主張であると思うが、ゲームをプレイするうえで上手くなろうとは思っていない場合は存分に味方のせいにして自分の非は一切ないと考えてもいい。

 

勿論それによって他者に暴言を吐いたり、危害を加える行為に及んだりすることは容認できない場合が多い。それは公共の福祉に反しているから。責任が他方にあると考え自身のメンタルを守ることと、責任があると考えた人間を糾弾することは全く別物であることはこのような拙筆を読んでいただいている聡明な皆さま(※このブログを読んでいただけるのが嬉しいので、読んでくださる方全般を手放しに称賛していますが、もしかしたら聡明でない方もいらっしゃるかもしれません)なら当然ご理解いただけているでしょう。

 

ある点での成長とメンタルの安定を考えた時にどちらを選ぶかは意見が分かれるところではあるかもしれないが、

この問いに対して後者を選ぶ人は積極的に種々の不都合や不利益を何かしらのせいにして生きていこう。

 

 

壊れちゃったら意味ないので。

 

 

以前は1日を無駄に浪費することに対する絶望に近い恐怖があったように感じる。

単にその日が消えてなくなってしまうことを憂いているのではなくて、無為に消費されてしまった今日の様に明日もその次もずっと同じように意味なく泡のように霧散してしまうのではないかという意味のない妄想。

実際はそんなことはなかったりする。ないとも言いきれない怖さは今でもなくなってはいないけど、明日は今日の生き写しではないし、昨日を模倣して生きなきゃいけないこともない。

もっと言えば同じように生きようとしたって全く同じ帰結にはならないし、昨日と同じ答えが見つかるわけでもない、世界は勝手に変わっていく。大袈裟なことを言わずとも、少なくとも俺は変わっていく。

 

今まで頭をどんなに巡らせてもわからなかったことが急にわかったりする、やっぱり今日もわからなかったりする。必死に藻掻いてるうちに光明が差すこともあれば、なんとはなしに答えを拾ったりする。

捜し物は探すのをやめると見つかると言うけれど、探し続けてれば見つかることも普通にある。本当にそれだけの話。

 

 

わざと特筆するようなことじゃない。俺は今日も1日を浪費した。わかんないけどたぶん明日も。

雨が降りそうだったか、或いは降っていたか、それは昨日と同じ。
コーヒーを飲んで、煙草を吸って、読みかけの本を途中まで読んで、ラーメン屋に行ってちょっと長い距離歩いて帰った。昨日と同じ。
ただ一応、時間はちょっと違うし場所も全然違った。昨日より雨が強くてたくさん濡れた。
今日行ったラーメン屋は前に来た時と違って食券機は廃止されてたけど、前と同じものを頼んだ。

 

それでいいかどうかなんて知らないし、知ってる人がいても聞かない。聞いても俺の人生を歪める理由にはならないと思う。

でもとりあえず生きてるしまぁいいかなとか。

 

 

やらなきゃいけないことが沢山ある、これまでもこれからも。その殆どをやらずに生きてきた。これからは知らないけど、そんなにすぐには変わらない。

なにかのせいにしたりしなかったりしてとりあえずダラダラと生きている。

最期に正解でも聞かせてもらおうかな、誰でもいいから。

 

 

 

というわけで、後半急に方向転換して、自己弁護と日記を合わせたブログ。

 

普段より少しだけ長めに書いてみたけど、短い方がよかったら教えてください。こんな駄文を最後まで読んでる物好きに聞いても公正なサンプルは得れないかもしれないけど。

別に時間を無駄にしてるとか言ってないです。先に書いたようにどう生きるかは全く自由なので、俺個人としてらひたすらに感謝。読んでくれてありがとう。また気が向いたら書きます。