希死念慮が強い人とか、自己肯定感が低い人とかはほっとくと勝手に死んじゃう可能性があるので傷を舐めあって生きてたりします。
自分の全てを肯定され相手の全てを肯定することでアンバランスな足元の上でお互いに手を取り合って支えあっています。
自分はたぶん自己肯定感はそんなに高くない方ですけど、「生きてるだけで偉い」なんて空虚な言葉をかけられるのは嫌です。
否定はあんまりされたくないですが
全肯定は嫌いです。
書いていて思ったのですが、もしかしたら私が全肯定を否定する理由は自分のことを見てほしいからかもしれないです。
全てを肯定されるということは私の振る舞いや思考の如何に依らず全てを認められるということなので、それは全く意味のない承認であって否定されてようが肯定されてようが無意味に思えるからな気がします。
もちろんそういった肯定を受けてギリギリ保ってる人間の事を否定する気は全くありませんし、それで友達が生きてくれるなら方法なんてなんでも構わないです。
でも自分の意見を実直に述べるのであれば、
生きてるだけでは別に偉くないし、偉くある必要もないです。
ただひとつあるとすれば貴方のことが好きな人は貴方が生きてるだけで嬉しいと思います。
たぶん本当にそれだけです。
付け加えると生きてるだけで偉いって言葉が嫌いな理由のひとつとして偉くなくてはいけないように聞こえてしまうというのもある気がします。そもそも偉くなくてもいいのに死んでない人間を捕まえてその人が持っている生をわざわざ褒めるのがなんか嫌です。生きてて嬉しいよでいいと思うんですけど。
自分以外の誰かが自分の内包された苦しみを全部理解出来るわけないので、
“なんもわかってない”人(これは自分以外の全員、ともすれば自分も含めた全人類)が無責任に生を望むのは大きな呪いであるから、それを避けようとした結果なのかもしれませんが、他者の存在が生きる理由になるのであれば、死ぬ理由を超えるのであれば、全く呪いであっても構わない。そう思います。
莫大な悩みの殆どは死ぬに値しないようなものばかりです。小さい悩みでも当人にとっては生きる理由の全てを超越しうる理由になるでしょうが。
自分の幸せから目を逸らして逃げないでください。これは願いです。
私がどうしようもなく死にたさを抱えている時でも同じように思っています。
今は死にたくないです、死ぬのが怖いので、或いは貧乏性だからかもしれません。
でも生きてりゃいいです。それ以外はあとから勝手についてくるので。
ちなみに今までに書いた理論は全部後付けです。感情が先にあってそれを正当化する理論をあとから構築しようとしただけで、こういうことを考えた結果自分の気持ちができた訳ではありません。
俺は死にたくないし、友達にも死んで欲しくない、それだけです。
本当はもう少し書きたい内容があってこのブログを書き始めたはずなんですけど書いてたら忘れました。
思い出したら加筆します。
寒いっすね、冬。