ぶろぐ

毒にも薬にもなりませんが、私の内面を少し知れるブログです。

現代文

国語の成績と読書について思うところがあったので勢いでブログ書きました。

本当に瞬間の気持ちで書いているので後からちげーなぁと思ったら消します。許してください。文字数の関係でTwitterに収まらなかったんです。。。

 

きっかけはこのツイート

 

日本語学者(wikiに書いてあったのでご本人様が本当にそう名乗っているかは定かではないです)の飯間先生がこのようなツイートをしていました。

(この方のTwitterは個人的にすごく興味深いトピックが多いのでオススメです。)

 

興味をそそられたのでリプや引用RT、タグを少しだけ拝見させてもらい、思うことを書いてみました。

 

 

前書き終わり。以下本文に入り、常体になります。

 

 

このタグで発信をしている「読書をあまりしていないのにも関わらず現代文が得意だった」人が例として上げているのが主にセンターレベルの現代文である。
それもそのはず、大学受験の二次試験において現代文が必要とされる機会はそれほど多くない。

そもそもこの議題が(本を読む習慣はないが)現代文がそれなりに出来たという人の事であるので、一定レベルの学力を持たない人間の事は一旦考慮から外させてもらうことにしよう。
まず理系の人間の殆どは二次試験で国語を必要としない。国立大学の理系入試で2次まで現代文を課している大学は東京大学京都大学名古屋大学のみである。したがってこの3校以外を受験する(した)理系の人々はセンター試験以外で国語を必要としないのである(私立などで私の知る限りではない大学があったとしてもそれほど数は多くないだろう)。
また現代文が得意であり、かつ読書も頻繁にする人間の存在も考慮せねばならない。例えば文学部を志望する人間が本を読むことを嫌悪し、全く読書をしないということは比較的稀なケースであろう。理系に比べて文系の人間の方が一般に読書に親しむ人間の数は多くなるだろう(とされている)。
この様に考えていくと今回のケースに当てはまる人の中でセンターレベル以上の現代文の試験を課された人は、読書はあまり好まないがある程度の学力があり、文系(或いは先にあげた3校の理系)に進学を志す者ということになる。これが全国の高校3年生(or浪人生)に対してそこまで大きくない集合であるということは容易に想像できる。

 

話が逸れてしまったが、本題に戻る。読解力というのが文章を読んでその意図を汲み取る(さらに、自分なりの解釈を加える)事が出来る能力のことをいうのであれば、恐らくセンターレベルの現代文では読解力はそれほど必要な能力では無い。
もちろん筆者の主張を正しく解釈することで問題を解くのがより容易にはなるため、読解力とテストの点数に相関はあるのだろうが(明確なデータは探してないので知らないし、読解力というものを数値化するのも多分難しいと思う)センターレベルの現代文の出題形式はほとんど、複数の文章を羅列し、その中から誤っているものや適当なものを選ぶというものである。

この問題を解くにあたって重要なのは筆者が本文でどのようなことを、どのような方法で主張しているかではなく、選択肢として与えられた文章の内容が本文中で述べられているかどうかを探すことである。
つまるところ作者の意図というものの存在を断定して、ひとつの結論に向かって文章を余すことなく要約しようとした際の収斂的な読み方でも、文章に対して個性を働かせて記されている内容から自身の解釈を創造する拡散的な読み方でもなく、選択肢の文章の〇✕ゲームをするような読み方が求められているのである。

 

読解力と現代文の点数の相関関係は一旦置いておくとして、少なくとも読解力というものをそれほど持っていなかったとしても、選択肢に書いてある内容が本文で主張されている箇所を見つければ問題は解けてしまうのだ。

 

これが本を読む習慣がない(読解力がそれほどない)人間の中に国語の成績がよかったという人が一定数存在する理由のひとつなのではないだろうか。