ぶろぐ

毒にも薬にもなりませんが、私の内面を少し知れるブログです。

なぜ人を殺してはいけないのか

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所謂我々に'許されていないこと'は本当に許されていないのか?

 

果たして誰が許していないのか?民意か?国家か?

 

民意であれば、自分と相手しかこの世界にいなかった場合彼若しくは彼女を殺すことは許されるだろう、なぜなら当事者以外に民意が存在し得ないからである。当事者を数に入れて全体の意志とするのは個人的な事情が介在しすぎてしまう気がする。そもそも1人が異を唱えたところで50%だ。過半数に達していない。その場合が許されるなら3人では?4人では?77億人では?

 

 

では国家か、人を殺すのは刑法第2編第26章で犯罪とされている。殺人をおこなってしまうと死刑又は無期若しくは5年以上の懲役である。この法定刑を甘んじて受け入れる覚悟があるのであれば人を殺すことは認められるのだろうか?

もしそうでないならば何故認められないのか、国家が成立する以前の人間が人を殺すことを咎めるものがなかったのであれば団体への所属の有無によって自身の自由が強制的に奪われることはあるのだろうか。生まれながらにして国家に強制的に参加させられている現代の人間と法規が存在しない世界で生まれた人間に本質的に持つ人間本来の自由の差異が存在すると信じるに足る根拠はあるのか。

 

動物は自らの利得のために他の動物を殺して食べる。野生の動物は時に自らと同じ種でも殺すだろう、人間も同様である。勿論これを人が否定するのも当然である。なぜなら生物は生き長らえることと子孫を残すことが本質的に重要であり、自分が殺されるのは嫌だからである。人が人を殺していたらそれを咎める必要がある、そうしないと自分の命が危険に晒される。動物がこれを明確な規則として成立させることができないのは人間が単に他の動物に比べ多少賢いからに他ならない。ただこれは自分が死にたくない理由ではあるが人を殺してはいけない理由にはならない。

 

時たま親が自分の子供に向かって

「人の嫌がることをしてはいけないよ」

と教える。当然社会のことをほとんど知らない子供はこう答える。

「なぜ?」

するとまた親はこう返す

「自分が同じことやられたら嫌でしょ?」

これは本質的だ。相手が嫌がることをするということは当然自分も同様のことをされるリスクを背負うことになる。そのリスクは防げるなら防ぐべきだ。

 

殺人を合法化する事で喜ぶ人間は、自分が殺されてもいいほど殺したい人間がいる人か余程の腕自慢かバカだけだろう。

大抵は殺したいぐらい恨んでいる人がいても自分が殺されるリスクを負うほど殺したいとは思っていないのだ。

そういう人間に対しては自分が殺されないために人を殺してはいけないという論法が通じる。

 

 

では自分が殺されても刑罰を受けてもいいと言う覚悟を持った人間に人を殺してはいけない理由はどう説明したらいいのだろうか。