ぶろぐ

毒にも薬にもなりませんが、私の内面を少し知れるブログです。

人を嫌うことと昔の夢


 

人は往々にして一貫性を持たない。思っているよりも自分を貫きとおすことは難しいのだ。

 

自分が最も嫌う要素を自分自身が強く持っているなんてことは珍しくない、寧ろ自分の嫌う人間をなぜ自分が嫌っているかを考えた際に湧き上がってくる他者に足りないものや、持ちすぎているもの。これらは自分に不足していたり、過多だったりするものが多い。例えば想像力であったり、例えばプライドであったりする。

 

 

人を嫌うのは実は難しい。好きになるほうがよっぽど簡単なんじゃないかとも思う。

「嫌い」という感情は当然負の感情である。負の感情は一般に世間から肯定され難い。人は大抵、否定されることを怖がる。どんな顔をしていたってその実承認欲求が存在しない人間などいるはずもなく、人から肯定されないというのは全く持って非常に恐ろしいことである。人が人を嫌うとき、たいていそこには理由が付きまとう。そして人はその理由を正当化しようとする、自分が負の感情を抱いたことは間違っていないんだと思いたがり、ネットや友人から同じ意見を発見しほっと胸をなでおろす。自分は正しかったのだと、複数の他者から嫌われるような相手が悪いのだと。

だから自分の嫌いな人間の悪口を聞いて安心し、自分の嫌いな作品の酷評を見て感性をたしかめる。そんなことに何の意味もないというのは正論だが、ここでは正論こそ全く意味がない。最も必要なのは安心に足る根拠と仲間である。

 

 

 

 

 

私には夢がある。

今ここで書くようなものではないが、私には進みたい道がある。ほとんど会えていない高校の同級生もみんな自身の進みたい道に向かって少しづつ進んでいるらしいし、全く何をしているかも知らない地元の知人も恐らくそうなんだろう。

 

 

ところで私は小さい頃夢がなかった。

 

 

幼少のころというのは比較的大きな夢を持ちがちなもので、皆しきりにプロ野球選手やケーキ屋さん、憧れのヒーローになりたがったものだ。

 

 

しかし、私には夢がなかった。ヒーローなんかになれるわけがないとたかをくくっていた、プロのスポーツ選手になれるわけがないとあきらめていた。何事かを諦めるに早すぎることにすら気づかずに、すべての分野で自分より優れた人間がいることを知っていた、それを知っていることが夢を持つことよりも有意義なことであると信じようとしていた。

結局なんてことはなく、私は自分が大人だと思い込みたかったのだ。大人は夢が簡単には叶わないことを知っている。現実をよりよく見ている。私が小学校低学年の頃にしていたのは、現実と向き合うことではなく、大人の真似事をして知った風な顔をしていて努力をすることから、また努力が結果として報われないことから目を背けてきただけに過ぎない。夢が叶うこともあるという現実から目をそらし続けながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上。